フーチャリスト宣言

本書は、著名なコンサルタントである梅田望夫さんと脳科学者である茂木健一郎さんのコラボレーション作である。ネット社会の本質を突き、さまざまな問題提起や気付きを促す優れた本だと思いました。今回は、印象に残った部分を引用し、自分なりの解釈を書いてみました。

Googleについて】

茂木「インターネットの世界は、私の言葉で言う「偶有性」、つまり、ある事象が半ば偶然的に半ば必然的に起こるという不確実な性質に満ちています。」(P.29)
「インターネット上のテクノロジーを単にテクノロジーとして評価するのではなく、それを使う人間側のモチベーションやインセンティブを含めて議論しないと、システムの性質は論じられない。」(P.71)
梅田「要するに、いいことをいっぱい書くと、グーグルが賢くなるんですよ。」(P.86)

「偶有性」といっても何らかの繋がりがないと発生し得ないはずである。その繋がりこそWeb、特にHTML言語の特性であるリンクから来ていると考える。そのリンクが広がることで、「偶有性」が高まるようになっているため、様々な新しいことが産み出される可能性は高いと考える。ゆるい繋がりを可能にした体系だからこそ「偶有性」が可能になって来ているのではないでしょうか。この「偶有性」への入口としてGoogleがあると考える。Googleはインセンティブとして、検索ランキングをシステムに組み込んだのではないか?確信犯で、これを行ったのであれば、Googleは極めて恐ろしく先進的な会社であることが分かる。

情報リテラシーについて】

梅田「ネットで何かいやなことを書かれて傷ついたということがきっかけで、不幸で悲しい事件も実際に起こるのだけれど、それを乗り越えていかなければならない。いまはまだ犠牲者が出ている試行錯誤の時期だと思います。新しい道具で、しかも強力な道具だから。それがあることを前提にリテラシーを身につけてサバイブしていかなければならないと思います。」(P.55)
「ネット時代のリテラシーというのは感情の技術ですよね。」(P.91)
「二つの別世界が地続きになっていて、そこを行ったり来たりする仕方が個性になっているんじゃないかと思いますよ、これから。」(P.89)

鈍感力やスルー力などが話題になってきているが、ネット時代はマイナスの情報(非生産的な情報)やゼロの情報(不要な情報)などのノイズを排除し、プラスの情報(生産的な情報)を選別するリテラシーが必要になってきていると考える。
ただ、それが過度に進むと、情報に最大限の価値を置くが故に、人格や人間臭さなどのパーソナリティが分離し、軽薄に扱われやしないかと危惧している。そのような中で、梅田さんのおっしゃるように、リアル人格とネット人格は分離したものではなく、連続したもので、行ったり来たりして、リアルな世界とリンクすることで、情報に人間臭さのような要素を持たせることが出来るのではないかと考える。

【日本社会について】

茂木「日本にも反体制、ヒッピーっぽい人はいますが、その人たちは往々にして技術をもっていない。しかも、うらめしそうな視点(ルサンチマン)を世界に対して持っている。」(P.36)
梅田「僕は、「脱エスタブリッシュメント」という言葉で表現しました。」(P.103)

欧米は建設的で良い意味で批判的であるが、日本は破壊的で非生産的であることを言い得ていると思う。民族性を現しているのではないだろうか。これが、ビジネスモデルにも影響を及ぼしていると考える。
また、日本のような静的な空間なら、エスタブリッシュメントも重要かも知れないが、そうでない場合、脱エスタブリッシュメントが必要であろう。特に現代社会は、グローバル化とダイナミック化してきており、「脱エスタブリッシュメント」というのはこれから重要なキーとなるであろう。

【Blogについて】

茂木「僕は昔からものを考えるときに、「補助線を引く」ということを大事にしています。」(P.136)

補助線といういい方が非常に気に入った。Blogは、本のような緻密的なものではなく、どちらかというと発展途上にあるβ版の集まりである。そういった意味で、補助線というキーワードは非常に言い得た言葉だと思いました。

フューチャリスト宣言 (ちくま新書)

フューチャリスト宣言 (ちくま新書)

メディアにおけるデバイド

メディアにおけるデバイドには2通りある。

(1) リッチメディアにおけるデバイ
(2) サブメディアにおけるデバイ

リッチメディアとは、
★リッチメディア(e-word)

データ量の少ない文字や静止画だけでなく、音声や動画など様々なメディアの情報を統合して扱うこと。

のことで、ネット接続環境がナローバンドの人や、ソフトウェア環境が低機能な人にとっては敷居が高い。パソコンなどに搭載されているCPUは、ムーアの法則に従って、年々高機能になっている。メモリなど周辺装置も含めたハードウェア全般の性能も高機能になってきている。それに伴い、OS(基本ソフトウェア)やアプリケーションのソフトウェアも高機能になってきている。

企業によるハードウェアやソフトウェアのハイエンド化による収益源の追求には、多くの場合、こういった非富裕層にとっては弊害が発生する場合が多い。
ハードウェアが高機能になるにつれて、本来、マーケットの原理では、量産により、価格が下落するはずである。しかし、実際は価格が保持される傾向にあるため、なかなか非富裕層には、手が届かない価格である可能性が高い。また、ソフトウェアが高機能であるため、メニューが多くの階層になったり、使い方が複雑になったりと、初心者にとっては、敷居が高いものになってきている。また、マニュアルなどの説明内容の量も多くなってきており、やりたいことをすぐに見つけることが出来ない状態になってきている。こういった現象をリッチメディアにおけるデバイという。

初心者だけでなく、低所得者が多い障害者・高齢者にも障壁となっている。ハンディによる操作の制限があるため、使いこなせない可能性が大いにある。

サブメディアとは、筆者の造語であるが、派生したメディアを意味する。例えば、以下のようなスラングが挙げられる。


(1) AA(アスキーアート)
(2) 顔文字
(3) ギャル文字

アスキーアートとは、2チャンネルで主に用いられている複数の記号を多くの場合は、複数の行に渡って人間の顔や景色などを描写したものである。例えば、以下のものがある。

  ∧_,,∧ 
  (´・ω・`)_。_トポトポ
  /  J つc(__アi!
  しー-J 

★アスキーアート(Wikipedia)

アスキーアート(ASCII Art)は、アスキーコード(ASCII Code)の0x20〜0x7eに含まれる文字、記号によって描かれたアート。テキストアート、文字絵とも呼ばれる。AAと略される事もある。

顔文字とは、日本ではわかん氏によって考案された複数の記号を組み合わせて顔を表現した文字だ。例えば、
(^_^)[笑っている顔]
(;_;)[泣いている顔]
などがある。

★顔文字(Wikipedia)

顔文字(かおもじ)とは、文字や記号を組み合わせて表情を表現したものである。アスキーアートの一種であり、アスキーアートの中でも特に1行で表す事のできるものを指す。パソコンや携帯電話を介してのメール、インターネット掲示板、チャットなどにおいて、文末に添える等の形で用いられる。

ギャル文字とは、日本の女子高生を中心に流行した類似する記号・文字を組み合わせて、本来の文字とは別の読み方をするものである。例えば、
た: ナ=・+=・†ニ・ナニ・十こ・†こ・ナ⊇
ち: 干・千・于
つ: っ・ッ・⊃
などがある。

★ギャル文字(Wikipedia)

ギャル文字(ギャルもじ)とは、携帯電話のメールなどで文字を分解・変形させて文字を表現する遊び・手法、またそれらの文字そのものの呼称。 「へた文字」とも呼ばれる。 変形対象となるのは主にひらがなやカタカナであるが、一部の漢字も偏と旁を分解して表記したり、ラテンアルファベットも変換するなど、その表現は多岐に渡る。

正確には、(1)アスキーアートに(2)顔文字、(3)ギャル文字が含まれるが、ここでは、使用集団を議論する必要があるため、敢えて分けて書く。

(1)は2チャンネルのようなダークサイトにおいて、顕示欲の捌口のような形で、用いられることが多い。しつこく同じものが繰り返して出現することが多い。
(2)は、EメールやSNS,Blogなどで筆者の気持ちを表現するといった、所謂、感情エージェントの役割を果たしている。文では、書ききれないエモーショナル的なものを補足するために使われている。
(3)は、主に女子高生などのギャルの間で、暗号的に使用している。サブカルチャー表意文字の形で使われている。

いずれも使用集団に属していないものにとっては、敷居の高いものである。複雑な構造を持つ場合は、読み上げが困難であり、また、読み書きには一定のリテラシーが必要であるため、ユーザーフレンドリーでなく、アクセシビリティを下げる要因となりうる。そこにサブメディアにおけるデバイが発生しうると考える。

言語におけるデバイド

前回は、非言語におけるデバイドというエントリにて非言語におけるデバイドについて考察した。今回は、言語面について考察を進めようと思う。

言語には、大きく分けて、視覚言語と音声言語に分かれるのが通説です。

音声言語:聴覚を利用する言語

★音声言語(Wikipedia)

音声言語は1次元的(リニア)に認識されるため、聴覚で認識した順序を、人間のコミュニケーションや相互作用を統べる規則として使う。

Wikipediaには、音声言語に、呻き声などの非言語も含めているが、議論の都合上、ここでは考慮しないこととする。

★視覚言語
視覚言語:視覚を利用する言語

視覚は3次元的に認識されるため、空間的位置を、人間のコミュニケーションや相互作用を統べる規則として使う。また、視覚で認識した順序も同時に規則として使う。 視覚言語には、文字、動作・表情語、点字、結縄文字、手旗信号、合図などがある。

言語におけるデバイドには、大きく分けて、以下の2通りに分けられると考えている。

視覚言語・音声言語共に、人間が持つ感覚(視覚・聴覚)を使用して、情報発信者(話し手・書き手)から発せられた一定のルールに基づいた言語としての情報をキャッチしている。もし、感覚に何らかの障害(遺伝などの先天性障害や病気・事故などの後天性障害)や衰え(老化)が有った場合、情報発信者の伝えたい内容を十分に受け止めることが出来ない。ここに【感覚上のデバイド】が生じると考えている。

この【感覚上のデバイド】を解消するためには、現時点では2通りの方法がある。

  • 理解可能な残能力を利用して、代替言語に置き換えて伝える(手話通訳、音声認識ソフトなど)
  • 残能力が理解可能な程度に、情報を増幅して伝える(補聴器など)

もう1つは、言語教育が何らかの原因で不十分だったため、十分に言語を獲得出来なかった場合である。原因としては、以下の2点が考えられる。

  • 言語政策問題
  • 言語教育問題

【言語政策問題】とは、政府が公用語を決定するため、自分の感覚に一番マッチした母語を使えない可能性がある。つまり、生活するに当たって、不得手あるいは抵抗のある言語を使わなければならないというハンディを背負う形になる。

★公用語(Wikipedia)

公用語(こうようご)とは、国、州、国際的集団など、ある集団・共同体内の公の場において用いられることが認められている言語。複数の言語が公用語に指定される場合も多く、この場合、国家(あるいは集団)は、どれか一つの言語だけを使用する国民(や構成員)に対して不利益を与えないように、必要な場面において複数の公用語を併記したり、互いに通訳したりする。

★母語(Wikipedia)

母語(ぼご)は、幼児が最初に覚える言語。第一言語とも言う。

日本の場合、大抵は、母語=公用語・母国語であるが、マイノリティ(小人数)にはこれにあてはまらない人が日本にも存在するので注意が必要である。例えば、アイヌ語母語とするアイヌ民族や日本手話を母語とする聴覚障害者がそうである。これらの人々は、母語ではない、公用語を使って生活しなければならないため、アイデンティティのゆらぎや分裂などのハンディを背負うことになり、それが【言語獲得上のデバイド】の原因となりうる。

★ろう者のアイデンティティ(第8回ろう教育を考える全国討論集会第4分科会レポートより転載)

 バイリンガル教育の主要な問題点は、次の通りである。第2言語習得には、「融合的動機」と、「道具的動機」の2つがある。「融合的動機」は、新しい言語集団のアイデンティティを獲得しようとする願望を持って第2言語を学ぶことである。また、「道具的動機」は、実利のために第2言語を学ぶことである。いずれにしても、効果的な第2言語取得には、アイデンティティの変化(転移)(identity transfer)が、必要である。しかし、多くの場合、アイデンティティの変化(転移)でなく、「ゆらぎ」または、「分裂」を起こす。例えば、日本手話を第1言語として獲得した後、第2言語として日本語を獲得する場合、「多数派である聴者の崇拝と少数派であるろう者の自己卑下」に基づいた否定的な自己像が、生じやすい事がある。ここで、気を付けなければいけないのは、第2言語を獲得する人が、自ら必要としてアイデンティティの「ゆらぎ」または、「分裂」を起こしたのではなくて、そうならざるを得ない現状にいることである。原因は、これまでも述べたように、少数派の言語(日本手話)や文化(ろう文化)が、社会的に広く認知されておらず、社会的な差別の対象になっているからだ。この現状では、第1言語を日本手話、第2言語を日本語とした場合、加算的バイリンガル(第1言語を維持しながら第2言語を習得する)ではなく、減算的バイリンガル(第2言語を習得する過程で、第1言語を忘れたり、あるいは意識的に使わないようにする)になる可能性が極めて高い。言語は意識と直結しており、言語の単一性は、意識の統一性やアイデンティティの安定性につながるので、結果として、ろう者の各個人が度合いの異なる言語を使用すると、ろう者としてのアイデンティティは育ちにくくなる事が考えられる。

 上記の引用箇所中にも出てきたが、バイリンガル教育のような【言語教育問題】として、主に以下の2つの問題があると考えています。

  • 生徒のアイデンティティを確立するのに最適な言語を選択していない
  • 言語の性格にあった教育を施していない

前者は、多くの場合、関係者(医療者、教育者、保護者)など他人が決めるため、本人の意志が尊重されない可能性がある。これは、本人が幼少ということが多く、難しい問題がある。
後者は、教育者が、言語の性質を良く理解していないため、最適な教育を施すことが出来ず、言語教育の効果が余り出せないケースがある。マイノリティな言語を教育する場合、頻出の問題である。

本当は、個々のケースについて具体的な例を書きたいのですが、スペースと時間の都合で割愛します。

解決策としては、上記のレポートの再引用になるが、

 第1に、ろう教育の早期段階において、ろう児が、ろう者のアイデンティティは、2つの自己概念から成立している事を理解し、その事実を受容しつつ、ろう者としての肯定的な自我像を確立出来るようにすべきである。具体的な手段としては、聴者との関係におけるろう者の自我の葛藤を確認するために、聴者と交流教育を行うことなどが挙げられる。さらに、日本手話を使用する自己と日本語を使う自己との間に、相互に補完するような関係を意識的に求めると、ろう者としてのアイデンティティは失われることを教えるべきである。

第2に、ろう者の自我の中の「抑圧」を知り、その歴史的ルーツと、そこに潜む支配関係を認識するために、過去のろう者運動の中で、どのようにして先輩方が、ろう者の様々な生活上の問題を克服・解決したかを学ぶ事が、重要である。

第3に、ろう者の統一的なアイデンティティには日本手話が不可欠であることを認識し、日本手話を大切にする心−すなわち、母語尊重主義を育む教育が必要である。また、ろう文化の独自性を理解させ、聴者に認めてもらうための一層の努力が不可欠である事を理解させる事も必要である。さらに、聴者にろう文化について理解してもらうため、聴者の世界に進出する為のスキルを身につける教育も必要である。そのためには、日本語教育も必要である。その一方、日本手話の言語としての地位を揺るぎないものとする研究・ろう文化の定義を明確にする研究、そして、日本手話のろう教育への導入に関する実験的研究の更なる進展が必要である。

が有効であると考えます。つまり、以下の3点が【言語獲得上のデバイド】の解決に重要と考えています。

※言語というと、ほとんど聴覚障害者に関わることなので、聴覚障害者のことばかり、書いてしまいましたが、本当はそれ以外にも様々な特殊なケースがあるのですが、それは、又の機会に書きたいと思います。

ウェブ人間論

今年最初に読んだ本で、去年の販売時よりずっと読みたくて仕方がない本であったが、ようやく読むことが出来たのだが、総じてこれまで書いた記事とシンクロする部分が多かったので、その部分を踏まえて書いてみる。

ウェブ人間論 (新潮新書)

ウェブ人間論 (新潮新書)

梅田:将棋の羽生善治さんの「高速道路」論というのがあって、「ITとネットの進化によって将棋の世界に起きた最大の変化は、将棋が強くなるための高速道路が一気に敷かれたということです。でも高速道路を走り抜けた先では、大渋滞が起きています」と彼は言うわけです。僕はその大渋滞を抜け出せるかどうかのカギの一つに、構造化能力というのがあると思っています。

構造化能力というのは、情報リテラシーの一つで、以下の2つの側面を持っていると思います。

  • 情報検索エンジンなどの情報整理エージェントにおける情報を構造化する能力
  • 個人の情報検索エンジンを駆使して必要とする情報を構造化する能力

いずれも情報化社会においては無くてはならない能力だと思います。
【参考】情報リテラシー教育の問題(β.)

平野:グーグルは、自らのミッションを「世界中の情報を組織化(オーガナイズ)し、それをあまねく誰からでもアクセスできるようにすること」と定義している。(P25)
梅田:グーグルは、検索エンジンの意味を体現して、情報の層(レイヤー)を全部押さえ、整理し、整理対象となる情報をもっともっと広範囲にしていく、ということをやり続ける、そういう意志を持った会社です。(P26-27)

グーグルは、検索対象としてのコンテンツを地図(Google Earth, Google Local)や動画(Google Video, YouTune)など水平方向に広げていき、成功したと思います。ユーザの知的欲求は飽きたらず、次は、垂直方向としてのDeepなコンテンツを求めてきているように思います。その1つの例としてWikiSeekがあるとおもいます。WikiSeekは、比較的情報粒度の細かいより専門的なコンテンツの多いWikiが検索対象となっています。これからは、WikiSeekのような検索対象を絞ったニッチな検索エンジンギークやオタクの好む情報に特化した検索エンジンが注目されていくと思います。
【参考】Web2.0の罠(その2)(β.)
★WikiSeek
★Wikipediaの新しい検索エンジンWikiSeek

平野:利便性というのは、基本的には一人の人間が、たった一つの身体に物理的に拘束されている条件からの解放なんだと思うんです。(p27)

この一節は簡潔なセンテンスなんですが、大変重みのある言葉だと思いました。利便性というとどうしてもCanという側面が強調されがちなんですが、Freeという側面も考慮しなくてはいけないと思いました。

梅田:たとえば2.0の特徴のひとつとして「参加型」ということがよく言われます。ただ、1.0の頃からホームページを作ることはできたわけで、昔から「参加型」ではあるんです。でもグーグル以前は、世界の片隅でホームページで何か書いても、ほとんど誰にも届かなかった。でも今は、検索エンジンなどを介して、同じ関心を持つことがつながることができるようになったわけです。(p29)
平野:ネット時代になって、みんな情報の価値をこれまで以上に実感し始めたんじゃないかと思うんです。ネットの言説空間の中では、多くの場合、ある人が、リアルな世界で何をしているかという社会的な属性が厳密に特定出来ませんから、発信され、交換される情報の質や量によって、その存在価値が決定されている。(p30)
梅田:世界の結び目を、自動的に生成する機会なんですね。検索エンジンは。リアルタイムでどんどん更新されているすべての情報を、常時取り込んで整理している…。(p31)

ここには、グーグルとユーザのWin-Win関係が巧く築かれていると思います。
【グーグルのWin】

  • 検索すれば検索するほど、情報の関心度・重要度の情報といったメタ情報をグーグルに与え、情報ファインダビリティの向上に寄与している

【ユーザのWin】

  • 情報発信コンテンツに対する検索エンジンからのリンクによって自己存在価値を高める

グーグルのビジネスモデルの凄いところは、絶えずフィードバックによって情報自体が自己組織化を行うことが出来るシステムだと思いました。

平野:インターネットによってグローバリゼーションが進むとよく言われますが、一面では逆に一人の人間のナショナリティは強化される方向に向かうのではないかと思ったことがあるんです。(p32)

この一説はパラドックス的で面白いと思いました。情報大航海するにつれて、原点が見えてくるという感覚でしょう。

梅田:むしろブログの本当の意味は、何かを語る、何かを伝える、ということ以上に、もう一つあるのではないかと感じています。ブログを書くことで、知の創出がなされたこと以上に、自分が成長出来たという実感があります。(p39)

私自身の経験から言っても、本当にそうだと思います。ブログは、ネット上の知の共創であると同時に、自分の成長のログですから、大変価値のあるものだと思います。

平野:ナイーブな、一種の功利主義的な人間観は、若い世代の、とりわけエリート層にはますます広まりつつあるんでしょう。・・・「有益性」が前提とされている友人関係は、個人的にはちょっとカンベンしてほしい気がしますね。(p53)

この人間観は、情報化社会がもたらした一つの弊害のように思います。情報に過度に依存した現代では、情報を持っている人間に最大の価値を置くために、本来人間が持つべき、ボランティアとかそういった感覚が萎えてしまっているように感じます。

梅田:個として、そういう負の部分をやり過ごす強さとか、見ないようにするリテラシーを、これからのネット社会では身につけなくてはいけないと思うんです。(p109)

情報リテラシーにも、ポジティブなものと、ネガティブなものがあり、これは後者だと思います。自分を守るためのスキルとしてこれからの情報化社会では有った方がよいものだと思いました。

以上、私が印象に残ったことを沢山引用しましたが、この他にも色々と考えさせられた部分が沢山ありました。皆さんにも一読を強くお勧め致します。

★これは受けた!(My Life Between Silicon Valley and Japan)

情報リテラシー教育の問題

情報リテラシー教育がすざんなようである。高校の【情報】の教科書は、間違いだらけの上、内容が【情報リテラシー】の本質に触れていない。ただ、PCを使うようになるレベルで終わっている。【情報社会で生きる術】を教えていないのである。

★高校情報教科書あら探し

HTMLについてはCSSのことをきっちり書いてある教科書は少ないです。いまだに「」が入ったり、文章の構造上おかしいタグが書いてあったりすることは、利用している側が「見た目」でしか判断しない、ということだと思います。

★情報リテラシー教育という虚妄

 多くの場合、情報リテラシー教育というと学部1年生のような入門者向けに行われると思うのだが、その場合そもそもレポートや小論文さえ満足に書けない段階であり、教えるべきは情報リテラシー教育の前段階である論理性・合理性の表現力であるはずである。高校でも教えられている内容ではあるが、対象がより専門的な「科学」(人文も科学である)になるわけであるから、再度行っておくべきことではある。必要十分条件、逆裏対偶などは、中学レベルではあるが、このような機会に今一度復習させるべきだろう。

 そしてそのうえで、図書からにせよ雑誌からにせよ新聞からにせよ、採取した情報を如何に吟味し、何を書くべきで何を書くべきでないのか、書くとすればどう書くべきなのか、そこまでいってようやく情報リテラシーである。

★【情報】学習要領

情報及び情報技術を活用するための知識と技能の習得を通して,情報に関する科学的な見方や考え方を養うとともに,社会の中で情報及び情報技術が果たしている役割や影響を理解させ,情報化の進展に主体的に対応できる能力と態度を育てる。

と、目標は立派。しかし、教科書実体が学習要領を満たしているとは言えない。また、以下に示すように教員の方にも問題が存在する。

★高等学校の情報教育の問題点(長野大学/地域と教育の情報化研究会 和田勉/高校における情報教育の現状、今後のあり方)

一番の問題はというか、自分の努力ではどうにもならない問題は、情報科の新規教員採用が少ないということです。

普通教科「情報」が発足した2003年度に情報科免許での採用があったのは、全国都道府県のうち埼玉県だけでした。

と教える側にも人材不足の問題があるようです。このままではまずいです。(1)教科書の質向上、(2)情報科教員の増員の2点を改善しないことには、デジタルデバイドの根本が解決しないと思われる。

このエントリを書いた後、以下の優れたエントリがあったので紹介する。
★メディア・リテラシーと情報リテラシー

本来メディア・リテラシーには読み解くだけではなくメディアを使いこなす能力や情報発信力も含まれるはずだ。メディア・リテラシーへの取組みで有名なカナダを始め、欧米の方ではメディア・リテラシー教育は学校教育の中の(日本でいうところの)「国語」の時間に取り入れられ、「読み解き」と「制作」(自分たちで番組やCMをつくるとか)「発信」(自分たちで冊子をつくったり、インターネットでの発信の方法を学ぶとか)の両方を行うことが多いようなのだが、日本ではなぜかこれらが切り離され、メディア・リテラシーの方が軽視される傾向にあるように思う。

極めて同感する。以前のエントリにも書いたが、メディア・リテラシーは情報社会を生きるに当たって重要なリテラシーである。私が、個人的に考えている能力は、以下の3点。

・情報収集能力:ネットから必要とする情報を入手する能力
・情報分析能力:情報を分析・解析し、より高次元の意味のある結論を導出する能力
・情報発信能力:自ら持っている情報・知見を、アクセシブルな情報としてネット上に発信する能力

これらの能力は、前出の学習要領にも織り交ぜられているが、debyu-boさんのおっしゃっている通り、何故か日本では軽視されている。この辺り、もう少し調べてみる必要がありそうだ。

★デジタルデバイドの原因

非言語におけるデバイド

バイドには、言語上におけるデバイドと非言語におけるデバイドの2通りが存在する。

今回は、非言語におけるデバイドについて考えてみたい。

デジタル分野(主にインターネット)の分野に限ったことでないが、コンテキスト(context)の程度の違いというのが問題になってきている。コンテキストには、程度によってハイコンテクストとローコンテクストに区分されている。

まず、コンテクストとは、Wikipediaによると以下のように定義されている。
★コンテクスト(Wikipedia)

コミュニケーションの場で使用される言葉や表現を定義付ける背景や状況そのものを指す。例えば日本語で会話をする2者が「ママ」について話をしている時に、その2者の立場、関係性、前後の会話によって「ママ」の意味は異なる。2人が兄弟なのであれば自分達の母親についての話であろうし、クラブホステス同士の会話であればお店の女主人のことを指すであろう。このように相対的に定義が異なる言葉の場合は、コミュニケーションをとる2者の間でその関係性、背景や状況に対する認識が共有・同意されていなければ会話が成立しない。このような、コミュニケーションを成立させる共有情報をコンテクストという。

コミュニケーションを成立させる共有情報としてのコンテクストに依存しているか否かでハイコンテクストかローコンテクストかになってくる。

★コミュニケーションについて考える

<参考:コミュニケーション文化>

*ハイコンテクストカルチャー(言語の依存度が低い文化:日本、タイ、ベトナム
人々が濃密な絆で結ばれているために、情報が広く行き渡り、共有化されている。言外の表現にコミュニケーション内容を忍び込ませる。
・ツーといえばカー
・一を聞いて十を知る
・以心伝心
・言わなくたって分かってる
・阿吽(あうん)の呼吸
・察する、気をきかせる
理解しない聞き手が悪い

*ローコンテクストカルチャー(言語の依存度が高い文化:アメリカ、イギリス)
個人主義が発達していて、同質性が低く、メンバー間で共有される背景知識が限定されているので、言葉に依存する割合が大きい。
・伝える手段は言葉だけ
・言葉足らずがない、名言する
・安全確実な伝え方
・シンプルで使いやすい
理解させ得ない話し手が悪い

コンテクストとは、言語に依存しないノンバーバル(非言語)的な要素を多く含み、インターネット(というよりは、2chの方かも知れない)で言うところの【行間を嫁(読め)】という話になるのではないかと思う。

【行間を嫁】とは、「行と行の間に隠れているコンテクストを読み取れ」というコンテクストを理解していない発言者(ネットビギナーが多いのではないかと思う)に対する警告として良く用いられるセンテンスである。

この言葉が発された瞬間、コンテクストを理解出来る人のみしか参加出来ない排他的なコミュニティになりうる危険性がある。ここに、デバイドが生じる原因が有るのではないかと思う。

排他的なコミュニティは、コンテクストを理解出来る人が主に集い、密度の高いコミュニケーションが出来るかも知れないが、有る意味、クローズドなコミュニティであり、初心者、障がい者などコミュニケーション弱者にとっては、敷居が高いものがある。

上で、引用したコミュニケーションについて考えるでは、更に以下のように書かれている。

日本のネット社会は、両方のカルチャーが交わっているように感じます。ネット社会は、相手の表情やしぐさが見えない、伝える手段が言葉だけの世界ですが、私達の心は、日常の延長として、ハイコンテキストカルチャー的な状態(理解しない聞き手が悪い)にあるのではないでしょうか。そのギャップが、ネット社会で発生する摩擦の大きな原因だと思います。

また、ネット社会の外であっても、特に政治関係の話をする場合は、ローコンテキストカルチャーの人達と話をするという意識を持つ方が、コミュニケーションの精度が上がるのではないかと思います。

至極その通りの指摘だと思う。クローズドな世界に居ると陳腐化してしまい、思考が硬直化する危険がある。インターネットは、緩い繋がりを可能にしている反面、物理的には繋がっている(リンクが張られている)反面、精神的に排他的なダークサイドが沢山存在している。

こう言ったサイトを否定するつもりはないが、コミュニケーション弱者に対して寛容な態度を取ることが出来るよう、行政や教育機関などが意識改革をしていく必要があるのではないかと思う。

以下、ご参考。
★空気の読める社会(1)(socioarc)
★空気の読める社会(2)(socioarc)

デジタルデバイド解決の試案

★デジタルデバイドの原因というエントリでネットワークにおける情報格差の生じる原因について述べたが、これはネットワークの特性によるものが大きい。

これを解決するためには、以下のシステムによる援助と人的援助の連携が重要なキーだと考えている。

(1) システムによる援助
リテラシによらず自由なコミュニケーションを産み出すシステム(1つの解としてSemantic Webがあると考える)

(2) 人的援助
 →コミュニティを運営するFacilitator(メンバへのエンパワーメント、コンテンツの健全性の維持を行う人)

どちらか一方に偏ってもうまく行かない。

システムのみに依存した場合、コミュニティメンバの多様性の粒度をコントロールすることはほぼ不可能なため、コミュニティの運営が成り立たなくなる。また、コミュニティにおける発言のモチベーションが上がらず、コンテンツが充実しない可能性がある。

人的リソースのみに依存した場合、マンパワーの限界に達した場合、Facilitateがほぼ不可能になり、コミュニティの運営が成り立たなくなる。

以上の理由から、双方の連携が重要であると考える。

今、流行の"Web2.0"は、参加型アーキテクチャだが、これは参加者がアーキテクチャを理解出来るリテラシの高い方に限られるため、デジタルデバイドを誘発しかねない。

【参考】Web2.0ビジネス』(1)--参加型アーキテクチャと蓄積データのビジネス適用[前編]

参加型アーキテクチャとは、(1)ユーザー参加機能をサービスにビルトインし、(2)ユーザーが生成したデータがネットワーク側へ蓄積され、(3)蓄積したデータをサービスに反映させるという一連のメカニズムである。

そこで、次世代のコミュニティアーキテクチャとして、エンパワーメント型アーキテクチャを提唱したい。

エンパワーメント型アーキテクチャとは、リテラシの高低に依存せず、ネットワーク上でコミュニケーション出来るようなアーキテクチャの集大成である。賛否両論有るかも知れないが、現在のUDをWeb2.0的に拡張したという意味で、UD2.0と称したい。

具体的には、最初に述べたように、【システムによる援助】と【人的援助】を上手に組み合わせた方式を考えているが、実現にはもう少し時間がかかりそうである。

以下、ご参考。
★Web2.0時代のUD(ユニバーサルデザイン)は、UD2.0へ