情報社会学序説(第2章)

 筆者は、様々な社会的事物を定量的に評価するという試みをしていた。

現在定着している社会的事物は、それまでに「形成」、「出現」、「突破」、「成熟」の四つの局面を経過して、「定着」局面――場合によっては「衰退」や「消滅」をも含む――に入っていると想定してみよう。
 以上五つの局面を、横軸に時間をとり、縦軸に上述したような適当な指標をとって図示してみるならば、図2.1.1に示すような、ローマ字のSの字を横に引き伸ばしたような曲線で表せるのではないかというのが、私の基本的な仮説である。

 指標に何を使うのかについては、深く立ち入らず、

 それら(注:社会的事物)は、なんらかの客観的もしくは主観的な指標によってその規模や強度を測定できるものだとしよう。客観的な指標の例としては、その事物がおおっている領域、含んでいる人口の規模、消費しているエネルギーその他の資源、産出している生産物や廃棄物等々、あるいはそれらを適当に組み合わせて作られる総合的指標などが考えられる。主観的な指標としては、たとえば人びとがその事物の今後の存続や発展の可能性について抱いている信念の強さといったものを考えてみることができよう。

と述べるにとどめていた。出来れば、もう少し言及が欲しいところだ。これ以降、延々として【社会変化】について論理展開されているので、冒頭にてしっかりと定義をして欲しかった。過渡期にあるポストモダンの姿がまだはっきりと見えないが故に評価が難しい面があるのかも知れない。

 【社会変化】について、以下のように深度を変えて分析していた。

 ここで、S字波のレンズを、さまざまな「倍率」というか「深度」をもって、世界の文明、とりわけ近代文明の進化過程にあてはめてみよう。

 ざっと纏めると以下のような感じである。

深度0の眼:諸文明の継起 ・・・近代文明のレベルでの分析
深度1の眼:近代化の三局面・・・近代文化のレベルでの分析
深度2の眼:近代化の三局面のそれぞれを対象とする分析
             ・・・近代文化の歴史的解釈
深度3の眼:国家化や産業化や情報化の各小局面への適用
             ・・・国家・産業レベルでの分析
深度4の眼:小局面自体の内部のレベルの分析
             ・・・第一次情報革命および第三次産業革命の分析

 分析のレベル分けという試みは、非常に色々な示唆に富んでいて、大変興味深い。鳥瞰してみると、それらがつながってS字波となっているように感じた。大局的にも小局的にもS字波として、表現できるのかも知れない。感覚的にはなんとなくそうだなという感じはするのだが、それを上手く纏め上げることはなかなか難しいように思った。深度4のところで、所謂IT革命が取り上げられているが、結局の所、IT革命に至るべきだった運命にあるような印象を受けた。なぜ、IT革命に至ったのかというような深度0〜4の分析を串差しした分析が欲しいなと思いました。

 深度0のところで、

私のみるところでは、未来志向型の近代文明のもっとも顕著な特徴は、人びとが自分の目標を実現するために環境(自分自身をも含む)を支配・制御する手段ないし能力(以下ではそれらを「パワー」と総称することもある)の不断の増進(エンパワーメント)にある。近代化過程とは、この意味でのエンパワーメント過程に他ならないのである。

とあったが、これは非常に重要だと思う。IT革命により、情報が安く手にはいるようになり、オープン化によりノウハウやリソースがコモン化されるようになり、色々な可能性が大衆層まで浸透しつつあるように思う。従来は、一部の人の特権でしかなかったことが、今は誰でも出来るようになったというのが大きいと思う。

 近代文明の根底には、近代化を可能にした「人間中心主義」とでも総称できる近代文化(世界観・価値観)があり、それは、

  1.進歩主義
  2.手段主義
  3.自由主義

の三つの主要構成要素(文化子)からなりたっている。

ここで、マズローの欲求階層説が思い浮かんだ。知的水準が高度化になればなるほど、欲求階層の上のレベルへの欲求が高まり、上記の1〜3へ傾倒せざるを得ない人間の本来の性質が現れているように思った。

 それでは、近代文明とは異なる過去準拠型の文明である宗教文明は、どのような文化に立脚しているのだろうか。先にあげた「近代文化」の三つの主要な「文化子」に対照させていえば、「宗教文化」とでも呼ぶべきものの三つの主要な文化子は、

  1.正統主義
  2.目的主義
  3.戒律主義

だとみてよいだろう。つまり、世界は基本的には衰退し終末に向かうことは不可避だとしても、ただ放置すれば誤った異端的な考え方がはびこってたちまち堕落してしまうので、過去の聖人や教主が示した教えの正統を護持することがなによりも大切(正統主義)であり、手段の有効性に目を奪われるよりは、正しい目的とはなんであるのか、また正しい目的にとってふさわしい手段は何かということを、常に心にかけていなくてはならない(目的主義)。そのさい、弱くて愚かな個々人が自由勝手な考えやふるまいをすれば、たちまち異端を生み、正しい目的からの逸脱を招くので、それを防ぐためには神の与えた戒律に従って生活すべきだ(戒律主義)、という世界観・価値観がそれである。

 大局的に見た場合、【人間中心主義】という見方で見た場合、上記の通りだと思う。宗教の範疇外ではあるが、大澤真幸の言う「第三の審級」にもそっくり当て嵌めることが出来るのではないかと考えている。
 個人的には、【人間中心主義】の対極にあるものとして、【神中心主義】というものがあると考えている。この2つがどう違うかというと、【神】に対するアプローチの仕方の違いである。人間中心主義は、人間自身の価値観・文化の延長で神を理解することだと考えている。自らの生活基準やコンテキストの中で、例えば、先祖からの言い伝えや文書などを通して、神の存在を意識することなどがそうであると考えている。それに対し、神中心主義は、啓示や対話などを通して、神からのメッセージに対して、従っていくということと考えている。宗教文明の時代は、【神中心主義】のウェイトが大きかったが、近代文明、智識文明となるにつれて小さくなり、【人間中心主義】のウェイトが大きくなってきたように感じている。歴史は、振り子のように周期性をもっていると仮定すれば、揺り戻しが必ずあり、反対の立場にいるマイナーな人々の存在にも目を向ける必要があるのではないかと考えている。

未来の「智識文化」の三本柱は、消極的規定としては、

  1.反進歩主義(存続志向)
  2.反手段主義(目的重視)
  3.反自由主義(規制重視)

の世界観・価値観だということになるだろう。しかし、近代文明を通過した後の智識文明が以前と同じ宗教文明に回帰してしまうはずはないので、智識文化の根幹には過去の宗教文化(および近代文化)とは質的に異なる特性が含まれるに違いない。だが、そういった点を加味しながらより積極的に、これらの柱をどのような言葉で表現すればよいのか、あるいはさらに新しい柱を追加すべきなのかは、いまの私にはいうことができない。

 最近は、スローライフ、スローワークなど、これまでのファースト的なライフスタイルの見直し、営利主義への反発からのオープンソース化、NPO化など、様々な形で揺り戻しの前兆が見られているように思う。全く回帰しないのか、一部だけ回帰するのか、全く回帰するのか、或いは別の形態が生まれるのかは、私にも分からない。今後、更に議論が進むことを期待したい。