情報社会学序説(第3章)

 第3章は、智民(筆者は、ギークハッカーなど特定の分野・技術に長けた新世代の人々を総称しているようである)たちとコンピューターの共進化について詳しく書いている。

 智民については、以下を参照のこと。
http://ised.glocom.jp/keyword/%E6%99%BA%E6%B0%91

 時がたつにつれて、企業家たちは、「富」(抽象的で一般的な取引・搾取力)そのものの蓄積と誇示を自己目的化して、そのための「富のゲーム」の自覚的なプレーヤーになっていった。諸国家も、「国威」(抽象的で一般的な脅迫・強制力)そのものの増進と発揚を自己目的化して、そのための「威のゲーム」の自覚的なプレーヤーになっていった。それと似たような意味で、第一次情報革命が「出現の成熟」局面に入る二一世紀前半ともなれば、新たに叢生してきたネットワーク型の組織たちは「智」(抽象的で一般的な説得・誘導力)そのものの獲得と発揮をめざす「智のゲーム」の自覚的なプレーヤー、つまり「智業」になっていくのではないか。
 しかし、そのためには、産業社会において自由な起業や営利活動が、既存の主権国家の統治の枠組みの下での社会的に正統性をもった行為として承認され、それに関するルールが整備されなくてはならなかったのと同じことが、情報社会でも起こらなくてはならない。

 産業社会と、情報社会の中での主権国家と国民の関係は、サーバーとクライアントのアナロジーであると考えている。主権国家が、中央集権的体制であり、国民は、それに対して、色々と(情報開示などの)請求を出し、主権国家がそれを処理し、執政するというプロセスは、まさにサーバとクライアントの関係に似ている。最近は、オープン化により、国民が情報の入手がしやすくなり、国民が情報を持つことによってパワーを得つつあると言える。そういう意味では、エンパワーメントが進んできているのではないか。また、エンパワーメントされた側は、NPOなどの形で、行政が出来ないことを補ったり、代行したりしてくるところが増えてきていると捉えている。もう少し、具体的に述べると、次のようになる。
 産業社会は、資産が目に見える形で有ったため、主権国家が統治しやすかったと言えよう。コントロールする範囲があらかじめ決まっているという、クローズドなプラットフォーム上では、創発的な活動がしづらいという欠点があった。しかし、一旦結びつけば、強固な結びつきの上で、相互発展可能であるという長所はある。
 一方、情報社会は、資産が目に見えない形であるため、主権国家が統治しにくい。インターネットという無限に近い広がりを持ったオープンなプラットフォーム上では、Weak tiesによって、様々なクライアントが結びつき、創発的な活動が活発になる。しかし、主権国家がコントロール出来る範囲を超えて、世界中に散らばっているので、コントロールしきれていない部分が多大有るのが事実である。
 情報社会でもルールが必要になって来ざるを得ないという状況には、なってきていると思う。既に、プライバシー、セキュリティなど色々と問題が発生してきており、どのようにコントロールしていくべきかという議論は、ised@glocomなどではじまったばかりであり、今後どのように形成されていくか注目している。

 コンピューター産業の展開については、これまではハーバード大学ビジネススクールのリチャード・L・ノーランの「ステージ理論」が標準的な見方だとされてきている。
 それは、ITないしコンピューター産業の展開を、
(1)データ処理、(2)マイクロコンピューター、(3)ネットワーク
という三つの時代の継起と解釈する三段階論である。そして、

それぞれの時代において、技術をめぐる組織的な学習は、自覚の段階から熟達と利用の段階に進んでいくが、そのさいに、企業にとっての価値を捕捉するために情報技術が効果的に活用される。データ処理時代にはメーンフレーム技術と取引処理の自動化の熟達が見られ、マイクロコンピューター時代にはマイクロコンピューター技術と「情報化(informating)」(組織従業員の活動強化)の熟達が見られたように、新しいネットワーク時代にはクライエント/サーバーとネットワーキング技術の熟達と利用が見られるだろう

 という。

 今後のコンピューター産業は、クライアントとサーバーのボーダーが曖昧になって、P2P的になっていく分野と、アップサイジングにより、メインフレーム(データセンター)へ戻る分野に分かれていくと予想している。前者は、オープンソースプロジェクトなど、後者は、Googleのような検索関連のインフォミディアリが主導していくと予想している。前者は、情報の価値を下げるもの、後者は上場の価値を上げるものと分かれているのが面白い。現在は、情報が偏在しているが、将来は、情報が二極分化(bipolarization)するのではないかと想像している。

 ラインゴールドの『スマートモブズ』のなかで、「P2P」や「パーベイシブ」、あるいは「バーチャル・コミュニティ」という言葉と並んで、いやそれ以上に頻繁にでてくるのが、人間が自分の身にまとう、あるいは装着するコンピューターを意味する「ウェアラブル・コンピューター」という言葉である。先に見たギルダーは、これからのコンピューターは「ポケット・コンピューター」になるという言い方をしていたが、ラインゴールドはもう一歩先をみている。つまり、かつてはわれわれの身体、とりわけ脳の外にある情報処理機械として生まれてきたコンピューターが、今ではわれわれの身体の一部となる方向に向かって進化するようになった、コンピューターの「(再)身体化」とでもいうべき流れを、彼は捉えているのである。そうだとすれば、「ウェアラブル」のさらにその先には、人間の身体の中に「埋め込まれた(エンベッデド)」コンピューターやマイクロマシンの時代が待っているだろう。

 情報タグがその例となるのではないかと想像している。脳の一部として直結して処理を分散させるのは、個人的には無理なのではないかと考えている。脳の自律レベルとコンピュータの処理能力とはかなりの隔たりがあり、実用化するとしても、用途が限定されたものとなるだろう。それよりも、実用化されそうなのが、情報タグであり、既に商品の管理やID管理などで使われていて、一定の成果を収めている。つまり、身体とは、一定の距離を置きつつ、情報発信や情報処理を行うデバイスであれば、かなり進展するのではないかと予想している。
 岡田がいうには、

 よく雑誌なんかでは、これからの高度情報社会、マルチメディア社会ではソフトが大切になる、ソフトを作るクリエーターを育てるべきだ、とか書かれているが、これは大嘘だ。国民みんなが小説家なんて国があるはずがない。それより求められるのは、情報の価値を決めてくれる人だ。[中略]実はそういう人こそこれからの情報社会、マルチメディア社会では必要だし、自分が作りたいものを作るクリエイターたちより偉くなれるに決まっている。成熟した経済社会において、いちばん力を持っているのは、生産者・製造者ではなく流通だ。[中略]同じように、これからの情報社会においてはソフト自体の価値や品質を見極め、ぴったり合うものを人びとのお手許に届けることができる人、頼りになる批評家であり、コーディネイターたりうる人々、こういう人々がマルチメディア時代の最終勝者となりうるのだ。

とのことである。情報の価値を決める、即ち、インフルエンサーという人々が、今後の情報社会界での重要なキーを握っているように思う。